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「新潮45」に対する産経新聞のおもしろコラム。

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とある新聞の日曜版の1面に、面白いことを書いている作家さんのおもしろコラムがありました。

「雑」なる意見を載せる場なのである。反対意見も掲載するのが当然だろうし、世間だか読者だかは、そのなりゆきを妨げてはならない。このルールは守られず、出版社も闘う勇気を持たなかった。

私は、「新潮45」は手にとったこともなかったので、今回の騒動で何が書いてあったかはネットの「雑」な意見でしか触れていない。

そんな自分がとやかく言う立場にはないのだが、このコラムは紹介したい。

 

まず、雑誌というものは「雑」な意見を掲載してもよい場なのか?
そんなことをすれば読者は離れていくのではないでしょうか。ネットで騒がれていたことをうのみにするのなら、「雑」と表現するのは違うのではないか。そして「雑」としてしまう右側の人の卑怯さを感じました。

 

世間や読者は、なりゆきを妨げてはならないのか?
世間が騒ぐのことや、寄稿者が騒ぐのこと、ましてや読者が騒ぐのは構わないのでは。しかし、ここで言う「世間」は、左派的な思想の過激な人々的なものだろうけど、なぜ「世間」としてしまうのか、不思議ではある。

そして、この世の出版社は問題のあるものを出版したら、電話が鳴り止まない、不買運動を起こされる、裁判を起こされる等々、多くのことを経験しているのではないか。

だから経済的な理由で廃刊するというのなら、ほぼそういうことなのでしょう。言論統制とかそういう話ではないでしょ。(コラム上に戦後の言論統制などとあるのですよ。)
まあ私も、廃刊のタイミングについてはいかがなものかと思いますが。言論というのならしっかり論争をしてからの廃刊なのではないか。

だけれども、闘う勇気と言われても、「雑」な意見でどうやって闘うのか、困るところではあるのでしょうけれど。

 

ちょっと書きたくなったのは以上です。